ドイツ・ボンに住みはじめて「思いのほか街が小さい」ということに驚きました。以前、現首都であるベルリンに1年住んでいたので、なんとなく「同じくらいの規模の都市なんだろう」と思っていたのですが、いやもう全然比べものにならないほど規模が小さい。ベルリンの人口が350万人であるのに対し、ボンは30万人というだけでも規模の小ささがよく分かります。
どうしてこんな小さな街が旧西ドイツの首都だったんだろうと不思議に思い、調べてみたら意外な理由が分かってきました。
理由その1:初代西ドイツ首相の家に近かったから
ボンの街の人が笑い話のように言う理由がこれ、「ドイツ分断後の初代西ドイツ首相コンラート・アデナウアーの家が近かったから」。ほんまかいな。そんな理由で首都が決まってええんかいな。
と、かなり不審な気持ちで聞いていたのですが、実際、コンラート・アデナウアーの生家はケルンにあり、当時の自宅もボン近くにあったことが少なからず一因なのだとか。もちろん他の理由も大きいのですが、ボン市民にとってはいい持ちネタになっているようです。
理由その2:ベルリンのイメージとは真逆の文教都市だったから
1949年当時、東ドイツの首都になったベルリンは、第二次世界大戦中の影響もあり「帝国主義的」「軍事的」「独裁的」というイメージが強かったようです。ドイツ分断時に東ドイツを統治していたソヴィエト連邦のイメージもかぶる気がします。
そんな東ドイツと同じようなイメージの都市を首都にすると、軍事的に対抗する意思があるとも捉えられかねません。また戦後の新しい「ドイツ」は平和を目指し、他国との調和を目指すという意思を示す必要があるので、ベルリンとは真逆の、牧歌的で理性的な小さな街である文教都市ボンが西ドイツの首都になったのだそうです。
たしかに、当時のベルリンのイメージが猛々しいオオカミだとすれば、ボンは老成したヒツジって感じがします。落ち着いててのんびりしつつも聡い。
理由その3:再統一後の首都を間違いなくベルリンにするために
おそらく最大の理由は「再統一後の首都を間違いなくベルリンにするために」でしょう。
東ドイツの首都と西ドイツの首都。2つの首都があれば、当然、再統一後の首都はどちらにするかという議論が持ち上がります。
もし西ドイツの首都がベルリンに匹敵するような大都市だったらどうなっていたでしょうか。事実、西ドイツ首都としてボンともう1つ、フランクフルトが候補地に挙がっていました。もし経済都市として申し分ない大都市フランクフルトが西ドイツの首都になっていたら、「ドイツ再統一後の首都はフランクフルトがふさわしい」という意見もあり得たかもしれない。さらには首都に関する意見が合わないせいで、「西ドイツ・東ドイツ、それぞれの首都を存続させればいい」とドイツ再統一が形骸化するという懸念もありました。
しかしドイツ国民にとってドイツ分断以前の首都ベルリンは、1871年にドイツ統一を果たして建国されたドイツ帝国以来の首都。まさに統一の象徴です。再統一後の首都にベルリンを望む声は高く、そのため再統一後に争いの起こりそうにないボンという小さな街が首都に選ばれたのだそうです。
ボンって西ドイツの首都だったわりには小さいなと思っていたのですが、むしろボンが小さい街であることは、ドイツ再統一を願うドイツ国民の強い意志の表れなのだと思うととても興味深くなりました。
西ドイツ首都の面影が残るボン
現在のドイツ首都はベルリンになりましたが、ボンにも西ドイツ首都だったころの名残りがあります。いまでも連邦政府機関がいくつか残っていますし、国連関係の組織も多く置かれています。ボンを急激に衰退させないようにという配慮と、すでに確立していた国連都市としての地位を存続させようという意図だったようです。
そのためか、ボンは小さな街のわりに英語を話す人が多いように思います。
西ドイツ当時は各国大使館や連邦政府機関、国連組織などがいまよりもたくさんあったので、そこで働くために英語を学んだ人も多いのでしょう。そういった機関で働く英語話者も多いので、レストランやスーパーでも英語が通じやすい気がします。またボンは街の中にボン大学の建物が点在していて、そこに通う大学生や留学生も英語が話せるので、本当に英語話者が多いなぁという印象です。レストランは大学生がアルバイトしてることも多いですしね。
落ち着いた雰囲気で英語も通じやすく、のんびりした日本人でも過ごしやすいボン。小さな街なのですがいろいろなエピソードがあり、とても奥が深く面白い街です。
参考:
ドイツにおける首都機能分散の現状と課題について(国土交通省)
Zur Orientierung. Basiswissen Deutschland(ドイツ・オリエンテーションコース教科書)